『哭声/コクソン』映画‐解説・考察

哭声/コクソンの解説と考察

おすすめのサスペンス映画『哭声/コクソン』の解説と考察です。

この記事は本作を既に観たことを前提に書いております。

まだ映画を観ていない方や詳しいあらすじ(ネタバレなし)を知りたい方はこちらの記事をお読みください。

『哭声/コクソン』映画(ネタバレなし)‐難解で味わい深い異色のサスペンス。

それでは、いってみましょー

『哭声/コクソン』の解説と考察

『哭声/コクソン』の解説と考察ですが、色々な人が色々な事を言っているので、正解が一つではないかもしれません。

※本記事は個人の見解で公式の意見では誤解しないでくださいね。

よそ者の日本人の正体

まず、みなさん気になっている点として、國村隼さん演じる、よそ者の日本人はラストで見せた姿のように本当に悪魔だったのか?という点を見ていきましょう。

演じた國村隼さんは「あの男は別に人ですらない」と言っていますから、人間ではないことは確かみたいです。

人じゃないならいったい何者なんでしょう?

監督のナ・ホンジン自体がキリスト教徒ということもあり、本作は聖書に大きく影響を受けたとインタビューでも答えていますし聖書ネタも満載です。

そこで、他の人の考察を見ると、どうやらイエス派と悪魔派にわかれている状況です。

日本人はイエス?

悪魔なのはわかるけどイエスってどういうこと?

これについては物語ラストに日本人の男が助祭のイサムに言っていた以下の言葉が関係しています。

「わたしに触れてみろ 幽霊には肉と骨がないが お前が見る通り わたしには 肉も骨もある」

そして彼はイサムに自分の左手を見せるのですが、そこにはイエスと同じように手のひらに丸い穴が開いています(はりつけにされた時の傷)。

驚いて恐怖するイサムを映し、場面は代わります。

そして次に映された時、日本人は恐ろしい悪魔のような姿に代わり、カメラを向けてあざ笑うかのようにイサムにこう言いました。

「どうして 心に疑いをもつのか」
「わたしの手や足を見なさい」
「まさに わたしだ」

そして、いやらしい笑い声とともに彼等の会話は終了します。

このラストのやりとりは

まさに物語冒頭で出てきた聖書のルカ24章37‐39節のイエスが言ったセリフと同じです。

聖書の場面的には、処刑後に復活したイエスを見て、イエスのことを怖がる弟子たちに対してのセリフですが、なぜこの日本人はイエスと同じ言葉を言ったのでしょう?

しかも手のひらに同じ傷を負って。

似た境遇の日本人とイエス

他にこの日本人とイエスの共通点として、迫害されて処刑されたイエス同様に、彼も警察官のジョングらによって一度殺されて、蘇っています。

それにこの男は、殺される前の追いかけられる時にジョング達から必死に逃げて泣きそうになっています。

イエス自身も処刑前日には

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」

と、この杯(人類の罪を贖うために命を捨てる)という使命に対し弱気になっています。

それ以外にも、憑りつかれた娘が貪り食っていたのが、キリスト教と関係が深いと言われる魚という点や

信仰心のない人にとってはイエスが悪魔に見えたんじゃないか?

イエスを信じない人に裁きがくだされたんだ!

といった意見など、

日本人=イエスという意見は色々あるみたいです。

日本人が悪魔だという意見

ですが、監督が白い服の女について「善である」と明言したという情報もあります。

トークショーでそう言っていたらしいですが、実際の映像やインタビュー記事が見つからなかったので100%本当なのかわかりません。。。

ですが、白い服の女VSよそ者の日本人&祈祷師という構図は事実だと言えます。

【補足】
未公開シーンとして山中で、白い服の女と日本人が戦う場面も撮影されています。

物語のラストでは、日本人が「燃やした」と言っていた写真を祈祷師が持っていましたし、ラストでカットされた未公開シーンでは二人が一緒に車に乗って、村を離れていくシーンがありましたから、この二人がグルだったことは事実です。

救うハズの娘を攻撃した祈祷師

お祓いシーンでは、祈祷師は、日本人ではなくて救うハズの娘を攻撃しており、日本人は、白い服の女から攻撃を受けていたと認識してよさそうです。

【補足】
娘が痛がっている箇所と日本人が痛がっている箇所が違う。

悪魔の復活を示す降り注ぐ蛾

その後、白い服の女から攻撃された祈祷師が怖くなって谷城(コクソン)からソウルに逃げようとしていましたが、その時、車に蛾みたいなのが降り注いでいました。

あれは悪魔の復活を表していたんだとか。

だから彼は谷城に戻ったのではないでしょうか?

不完全なゾンビ

それと物語の途中でゾンビが出てきたのは、たぶん、日本人の悪魔が黒魔術みたいなのを唱えてた時に、白い服の女に攻撃されて(お祓いシーン)不完全なゾンビが出来上がったという感じだと思います。

これらのことを考えると

白い服の女が「善」の存在で、対立しているよそ者の日本人と、グルの祈祷師が「悪」という結論になりそうです。

善と悪の基準

でも、そもそも「善」と「悪」はどういう基準なのでしょう?

警察官のジョングや村の人達の目線で考えると、危害を加えてくる、日本人たちが悪です。

ですが、もしこの日本人がイエスで、自分を信じずに迫害してくる人達に対して裁きを与えているだけだとしたら必ずしも「悪」とはいえません。。。

とはいっても悪魔がイエスの真似事をしてあざ笑っていただけの可能性もありますから色んな解釈ができるのかもしれませんね。

ナ・ホンジン監督の思惑

監督はこうやってイエス関連のことを伏線として物語に散りばめることで、真実を一つに断定せず、わざと色んな可能性を残したとも考えられます。

そして、あとは勝手に観客が深読みの考察をするだろうと先を読み、ミスリードの罠を沢山仕掛けていたのかもしれません。

それに、よそ者の日本人を演じた國村隼さんは、演技の際に観客を欺くために、キャラクターに一貫性を持たせず

「お客さんがどう感じるかを意識してそこに居ること」

を意識したと言っています。

私たちは最初から、ナ・ホンジン監督の手のひらの上で踊らされていたと考えると、本当に感心します。

『哭声/コクソン』の解説と考察のまとめ

今回、『哭声/コクソン』の解説と考察を考えてきましたが、白い服の女は、警察官のジョングを救おうとしていたと個人的には思います。

そして、悪魔の日本人とグルの祈祷師によって、ジョングはまんまと騙されて全てを失った・・・

という結論に至りました。

とは言ってもこれはあくまで、私が出した一つの結論で、監督がハッキリ明言していませんから、人それぞれ違う結論もあると思います。

映像全てが罠の可能性も

そもそもの話、ジョングが目にした風景や人そのものが彼を騙そうとする者による幻覚なのかもしれませんし、そう考えると映画の映像の全てが信じられなくなってきます。

それに、幻覚を引き起こすキノコのこともチラッと出ていますから、全ては村の人達の妄想という可能性もあります。

初めから、日本人も祈祷師も白い服の女も存在しなくて、映画の映像自体が全て幻覚を映していたという考えかたもできます。

まとめ

こういう風にナ・ホンジン監督はいくつものアナザーストーリーというか、どうとでも解釈できるような部分をわざと残したんだなぁと私は思います。

考察すればするほど、深みにハマっていくようで、まさに狡猾な悪魔が作ったような映画なのではないでしょうか。

ちなみに、國村隼さんが本作で披露した、ふんどし姿。

あれ、当初の台本では全裸だったそうですよ・・・

見苦しいという理由で変更したんだとか(笑)

そんな感じで色んな解釈や考察ができますから、2回、3回と観返しても十分楽しめると思います!

ぜひあなた独自の結論を見つけてくださいね。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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